不自然に鋭い感覚で、は、と目を覚ました。
意識が明瞭過ぎる。咄嗟に感じ取る、嫌な予感。
勢い良く、エドワードは跳ね起きた。
知らぬ間に解けた髪を振り乱して、周囲を見回す。
……室内が暗い。
暗幕を払った大きな窓から入るのは、心許ない星屑の光ばかり。その夜は新月だった。
わずかな光源を頼りにした視界。金色の目を眇め、エドワードは瞳孔が開くのを待つ。
元より起き抜けの目が慣れるのに大した時間は要さない。
けれど。
そこから得られる情報をにわかには信じ切れず、眇めていた目を徐々に見開いて、エドワードは愕然と動きを止めた。
だだっ広い、小奇麗で装飾過剰なホテルの一室……見覚えのある部屋は、あの人が案内してくれた。
床に大きく描かれた複雑な陣……それは、忌まわしくも希望を孕んだ、人体錬成の。
自分がいるのはその中心……錬成されたのはエドワード自身だ。
そして、陣の外縁に俯き跪いているのは 。
「た、いさ…」
カッと頭に血が昇った。
起き上がった低い姿勢のまま、男の元へ一足飛びに駆ける。
大きく右腕を引き、力一杯殴り付けた。
拳と頬、薄い皮膚二枚を挟んで、骨のぶつかる鈍い音。
殴り付けられ後ろへと倒れ込んだロイの上へ、勢いが殺せなかったエドワードも倒れ込む。それを幸いとロイの胸倉を掴み上げてエドワードが吠えた。
「アンタッ! 何やってんだ!! どういうつもりだっ!!! 何のためにこんな……」
殴打された拍子に、ロイの口から飛んで出た賢者の石が、転がる床の上でひび割れを生じた。
パキリ、と割れ崩れたそれは、サラサラと微かな音をさせながら、端から端から、粒子状になって空気中に消えて行く。
淡い、つかの間の夢のように。
伝説上の言い伝えとは違う。有限で、不完全で、罪深い石。
血の色をした結晶はやがて、影も形もなく消え失せた。
横目にそれを見届けてから、ようやくロイは口を開いた。
「君を、取り戻すためだよ」
確かな意志を持って、漆黒の眸がエドワードを捉える。
「…ッ何だと!?」
混乱から抜け出せなかったエドワードだったが、不意に、違和感に気付いた。
左足。
大理石の床についた、膝。
その感触。
ズボンの布地の上から、恐る恐る、脹脛に触れて。
「 なっ!?」
「左足も、無事に戻ったようだな」
便乗するかのように、ロイがエドワードの左膝を撫でる。その嬉しそうな顔にいっそ恐怖さえ覚えて、エドワードはロイの上から飛び退いた。
また、図らずも円の中央。
在るべき体の一部へと還ったばかりの片足は機械鎧に比べて軽過ぎて、後ずさりすら上手く行かず、エドワードは不格好に尻餅をついた。
指先に、ざらり、陣を描いた白亜の粉が触れる。慄いてそれから手を離した。
見ていたロイが、身を起こして、笑う。
「何を不安そうな顔をしている」
乱れた黒髪を掻き上げるロイは、酷く満足げに。
「喜ぶと良い。君は、『全て』を取り戻したんだよ」
優しい声色で差し伸べられた手を、エドワードは取る事が出来なかった。
代わりに、小刻みに震えている、自分の白く汚れた指を握り込む。
『全て』……とは、つまり。
「錬金術が使えるはずだ。あの頃と同じように……君の弟や、私と同じように」
片膝をついて、エドワードの高さにまで目線を下げ、微笑んで言う。
錬金術が、使える。
それをエドワードが喜ぶと、疑ってもいない、闇色の瞳。
「な、んで……?」
怖れを抱いて、エドワードは問うた。
知らないわけがない。
エドワードが、自分達の体を取り戻すために賢者の石を使う事を拒んだ理由を。
最後の錬成を躊躇わなかった意味を。
失われた力、それによって得られた安寧が、人としての『幸せ』と呼べる物であるという事を。
「…っオレ、は! あのままで、満足してたのに……!!」
血を吐くように呻いたエドワードに、ロイが表情を変えた。
瞬きの間に失われた、喜色。
端正な作りの能面に似た顔で、ロイはエドワードとの距離を詰めた。
ひたり、エドワードの腰を挟んで床に両手をつき、覆い被さる。
繊細な星の明りは、その男を濃淡のないモノクロの絵画のように見せて、現実感を失わせた。
「嘘を吐くな、エドワード」
真っ直ぐに見詰める眸は、昔から、エドワードに一切の虚偽を許さない。
「君は私と同じ種の人間だ。満足できるはずがない」
また近付いた白皙をよけようと、エドワードは知らず、身を低くしていた。体勢は既に仰臥の状態に近い。上半身を支える両肘で、床と背の間にわずかな空間をあけるのがせいぜいだ。
「錬金術が使えなくて不便だっただろう? 咄嗟の反応で、つい錬成の仕草をしてしまった覚えはないか?」
この一年、戸惑う事が多かったのは否めない。それによる失敗だっていくつもあった。
右腕が生身であるという事。そして、『自分は錬金術が使えないのだ』という自覚が芽生えて来たのもつい最近だ。
否定の出来ない問いを、ロイは言い詰める。
「以前なら錬金術で解決出来ていた事に手も足も出ない。仕方なく弟に頼るのは、プライドが傷付いたのではないかね?」
ロイの作る影が、エドワードの胸に、黒々とした陰影を落とす。
顔を歪めるエドワードを、目を細めて睥睨し、ロイは口角を上げた。
「『西の賢者』の血を引く君が、錬金術なくして生きて行けると思うか?」
酷薄な舌は、「お前の本性を知っている」とでも言うように、高慢な字句の並べ方をして。
「親父は関係ないッ! オレは……!」
未だ複雑な思いを抱く父親を引き合いに出され、過敏に反応したエドワードだったが、その先を継げずに口籠った。
「オレは……」
オレの道を、生きるのだ、と。
言いたいけれど、言えない。
錬金術を失くした自分に、何が出来るのか。
きっと何か出来る事があるはずだと、手探りで探した一年だったが、見付かってはいなかった。
やりたい事は、あった。
ニーナのような存在を二度と生み出したくない。
また、本人の意志とは関係なく、彼女と同じく合成獣にされてしまった人々を救う手立てを、どうにかして得たい。
そのために、自分には何が出来るだろう、と。
考える時間はいくらでもあった。
医療的見地。錬丹術的アプローチ。魂とは何か。身体とは何か。
結合された魂と精神、肉体を分離する、錬金術としての技術は確立しうるか。
異物との融合による拒絶反応はあるのか。あるとすればそれはどのように発現し、どのようにして抑止が可能になるのか。
理論ばかりを弟と交わして、実証する手段がない自らに歯噛みする。
結局のところ、錬金術から離れる事など、出来はしなかった。
アルフォンスが一度だけ行った、軍所有の合成獣を使った実験は、失敗に終わっている。その様を見て。
「オレに錬金術が使えたら」と。
アルフォンスの力量を侮っているのではなく、研究者の純粋な欲求として。
己の理論を、己の手で、己の眼で実証したいという、徹底した科学者の本質から。
そう考えてしまう自分を、捨てられなかった。
だとすれば、父のくびきを外れた『己の道』などというものが、一体どこに存在するのだ 。
だが、そう感じてしまう事それ自体が、未だ『錬金術を使えない自分』を受け入れられていない証であったのだと、今更になってエドワードは思い至った。
苦く、苦く、呼気を呑み下したエドワードの白い喉に、ロイが触れる。
「悩む必要などない。『真理』は君の中にある」
傲慢な魔物が甘美に微笑む。
「足はついでだ。戒めのために、君は機械鎧のままにしていたようだけれど、やはりあの空間に置き去りというのは良くないからね。五体満足に産んで下さったお母上にも、最後まで君達の幸せを願ったホーエンハイム氏にも」
エドワードの目元を撫でる指は優しく、まるで、愛しいものを慈しむかのように。
何もかもが元通りに収まった事を、ただ受け入れ、喜べ、と促す、漆黒の眼差し。
……そう、エドワードにとっての全てはもう、遅きに失した。
「私が、この国を変える。戦争のない国に。軍事力を要さない国に」
迷いなく、理想を確固たる目標として語る。
それを信じさせてくれるこの男は、この国の民の誰の目にも魅力的に映るだろう。
明日を託すのに相応しいと。
「私の元へ戻れ、エドワード。君の力が必要なんだ」
この男の求めを撥ね付ける事など、その時のエドワードには不可能だと思えた。
けれど、突然襲い掛かった様々な変化に、エドワードの心がついて行けない。
ジレンマにジレンマが重なる。
どれもこれも思っていた方向には進まず、ロイの身勝手な意向で敷かれたレールは、足元で、明るみとは対極の行き先へと続いている。
辛い事ばかりが待ち受けていると、その一端を垣間見ただけのエドワードにすら分かる、遠く苦しい道のり。
失意のどん底から見上げたあの時 同じように、ロイが国家錬金術師の勧誘にロックベルの家を訪ねて来た、十一歳のあの日とは、何もかもが違って見えた。
「どうしてオレなんだ……」
エドワードは、両手で顔を覆って問うた。
体を支える事も放棄して、二本の腕で、ロイから自身を守ろうと。
自らが下すであろう、受け入れがたい答えを拒絶するに足る論法を、組み上げる時間が欲しかった。
何故?
どうして?
自分でなくてはならない?
こんなのは、オレが望んだんじゃない。
「オレがいなくても……アンタならやれるだろ。皆がいるじゃねぇか」
大丈夫。皆がいる。
そう思った、あの瞬間の、希望に満ちた輝きは、どこへ。
「………」
何故と問うエドワードに、いくつそれらしい理由を挙げ連ねてみても、きっと嘘にしかならない。エドワードが許容しないからだ。ロイはそれを肌で感じていた。
分からない程、二人の付き合いは短くない。
「エドワード、私を見ろ。眼を逸らすな」
触れればびくりと揺れて怯えるエドワードの腕を、極力緩慢に、時間をかけて、ロイは開いた。
現れた金色の虹彩に滲む、水滴。
潤み、零れ落ちる雫にさえ、ロイは愛しさを覚えた。
惑う瞳の眦から滑る涙を、唇で吸い取って。
ロイは、エドワードの頬を、両手で包んだ。
真実を語らなければ、エドワードは納得しない。
そして。
心情を、弱さを吐露して訴えかければ、エドワードは無碍にしない。無碍に出来ない。
知っていて手段を選ぶ自らの低劣さも、ロイが顧みる事はなかった。
エドワードを手に入れるためなら、どんな手管をも厭わない。
琥珀色の眸が自分に定まるのを待って、ロイは唇を開いた。
「私を裁くのは、君でなくてはならないんだ」
笑んで見せる。
これが願いの根幹だと。
太平の世となれば、いずれ『戦犯』として裁かれるであろう自分を。
他の誰にでもなく、君に委ねたいから。
拒否する余地など、ロイは与えない。
苦痛を理由に、他人の手を取って、自分を殺せと喉元に絡めさせるような言葉。
エゴイスティックな告白。
エドワードの表情がまた、苦汁に歪む。
「…っアンタ、勝手だよ……!」
恨みを持つ、多くのイシュヴァール人達の復讐のために、殺されてはならない。殺させてはならない。
怨嗟の連環を断ち切るために、その男が選んだのは、エドワードだった。
一度は関わってしまった。
長く、自分達兄弟を見守ってくれた、この男が、弱い心根を晒して乞う姿は。
敵にさえ情を掛けたエドワードが、拒み得るものではなかった。
「錬金術から逃げるな、エドワード」
自分を振り回した大いなる力を失った事に、どこか安堵していた。それを逃げと捉える言葉は、元来が負けず嫌いなエドワードにわずかながらも決心を促した。
だが、その時。
その声は、その哀しみさえ窺わせた瞳は、確かに。
「私から逃げるな」と懇願しているようにも思えた。